| 2005年12月・2006年1月号 |
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村上春樹著 新潮文庫 現代文学の名作…? 「名作」という言葉には、何か有無を言わさぬ力がある。名前が知れているということ以上に、好き嫌いを超越した何かが滲み出ている。例えば村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。 正直、好き嫌いということであれば、村上春樹の作品は嫌いである。主人公がことあるごとに口にする「やれやれ」とか「どうでもいいけど」とか「喪失感」とか、そのいちいちが癇に障る。ただ、にもかかわらず読まされてしまうわけで、そこにこの作品の名作たる所以がある、と思うわけである。主人公にムカムカしながらでも読み進めて読み終えてしかも再読している以上は、そうとしか言いようがない。 ありえないようなエレベーターから物語は始まり、(文字通り)足下に深淵が開けている現実の世界(「ハードボイルド・ワンダーランド」)と、一角獣と(やはり文字通り)心のない人たちの町である「世界の終り」が、互い違いにそのエピソードを繰り広げる。図書館、性欲、ローレン・バコール、混沌、フランクフルト、夢読み、近藤正臣、手風琴…。リアリティの欠如した世界で、細部だけが妙にリアルにその存在を主張している。 深読みするもしないも随意である。ただいずれにせよ、信じることができるのは、やがて二つの世界の姿が顕わになり、そして終りを迎えるとき、これら些細な趣味やこだわりの一つひとつが、夢のように不確かな繋がりで、けれどもそれぞれに確かなものとして残してゆくその手触りである。 (韓図) (上巻 397頁 税込620円)
(下巻 347頁 税込580円)
武岡淳彦著 PHP文庫 あまりに流布しすぎた名作 二十年ほど前、ビジネスマンが兵書を読むのが流行った。私が『孫子』を初めて読んだのもその頃、副題に「戦わずして勝つ」と書かれた立間祥介訳・解説の集英社版であった。たまたま、老荘と同時期に読んだこともあって、私にとっては、両者の思想的類似は所与の前提であった。「道のいうべきは常の道にはあらず」に始まり政と人の世の流転を読む『老子』の思想は、『孫子』に到って、「兵は詭道」というしかない世界の渾沌に立ち向かい、あえて「彼を知り己を知れば百戦してあやうからず」という術を探り出す方へ展開したものと映ったのである。 孫子研究には日本でも歴史があり、ぶ厚い研究蓄積と共に、教訓譚めいた俗説(特に、安易にビジネスに応用せんとする類は多い)も少なくない。また長期にわたって、儒教的な拘束もあれば日本兵学特有の偏りもあった。結果として、例えばほとんどの邦書が、「兵は拙速を聞くも未だ巧久なるをみざるなり」を、速戦速決主義の意味でだけ解釈しており、これはこの百年、千年の間一貫している(曹操も孟子もこの見解を採っているので、有力な説ではあるが)。だが、実は戦略的な長期対峙策を含む万全主義とする説も古来根強く、そこには議論の余地がある。当該の章は戦争計画を論じた箇所であって戦術を論じた箇所ではないし、「拙」は方法の拙劣ではなく目標の限定を意味するというのである。ここで挙げた武岡の訳・解説書は、ビジネスマン向けながら、少数派の説を採る珍しい一冊であり、陸士卒の面目躍如たる、分かりやすく明晰な遺著である。 (森田) (各約379頁 各税込720円)
司馬遼太郎著 文春文庫 歴史小説の名作 時は明治、日本人は自らの歴史上初めて国民国家の運営に着手することになる。しかし、その運営は困難を極めた。世界は帝国主義の全盛期、アジアの小国日本は国家の舵取りを行ううえで、西洋列強の様々な軋轢への対応を余儀なくされた。この物語の主人公は、日露戦争においてロシアのコサック騎兵を破った秋山好古、日本海海戦の作戦をたてた秋山真之、そして短歌、俳句の革新につとめ、日本文学の発展に大きく貢献した正岡子規である。著者は彼らの思考を通し、明治という舞台における人々の気質を描き、さらには「日本人とは何か?」ということを考察する。よって上記の人物たちは「主人公」ではなく、「狂言回し」と表現したほうが適切かもしれない。本書では、上記の三人以外の人物も、日露戦争に携わった人々を中心に数多く描かれており、彼らの言動やそれに対する司馬遼太郎独自の注が、上記の問いへの重要な示唆を与えてくれる。 明治は決して将来を楽観視できる時代ではなかった。しかし、明治に生きた人々はなぜか非常に生き生きとして魅力的である。当時の日本の指針は、ひとえに「西洋列強による侵略の阻止」であった。少なくとも現代日本のような、複雑に多様化した価値観は存在しなかった。明治の日本人の多くはその目標を達成するべく、懸命に時には盲目的に努力した。しかし「盲目」はやがて「盲信」へと変わり、昭和の悲劇を生むことになる。これらの一連の事項に日本人の本質を見ることができはしないか? また、そこから現代人が学ぶべき点はないだろうか? (Arihist) (1〜8巻 各税込620円)
坂口安吾著 講談社文芸文庫 人間の孤独を描く名作 高校生の頃、現代文の授業で、安吾の評論「文学のふるさと」を読んだ。安吾は「モラルのないことがモラルである」ところに「文学のふるさと」があると言った。モラルとは、無矛盾や幸福といったような、我々が心の中や物語の中に見出そうとする筋道のようなもの。それが「ない」とき―例えば、狼に食べられたまま終わる赤頭巾の物語、鬼に喰われたまま終わる伊勢物語を読んだとき―に我々が抱く、「突き放された」感じ。そこに「文学のふるさと」があるのだと言う。安吾の言葉は、当時の評者の心に冷え冷えと、静かに突き刺さった。人生は不条理で残酷で孤独で美しいもの、そこに文学と人間の「ふるさと」があると彼は言っているのだ、と思った。 本書所収の「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」「紫大納言」などは、まさしく安吾の言うところの「モラルのない」物語である。それは幻想的なフィクションに満ちた物語ではあるが、人生を銀のピンセットで弄ぶようなものではない。洗練された銀の如き文体でも、ピンセットで腑分けするような冷静な眼差しでもない。安吾独特の、ある意味泥臭いようにも見える文体で、簡潔に淡々と描かれる登場人物たち。彼らは、我々自身の持っている不条理や残酷や孤独が美しくえぐり取られて、我々の目の前に差し出されたものなのだ。 人間や文学というものに対して思いをいたすとき、評者は安吾の文学を思い浮かべずにはいられない。「桜の森の満開の下」は、やりきれないような冷たい美しさを、いつも胸に突きつけてくるのである。 (宵) (446頁 税込1470円)
中江兆民著 桑原武夫・島田虔次訳・校注 岩波文庫 政に対する姿勢を問う名作 酒と議論が大好きな南海先生のもとに二人の来客が。理想主義の権化たる洋学紳士。拡張主義的なナショナリスト、その名も豪傑君。二人は時が経つのも忘れて延々と持論を展開する。酒を飲みながら楽しそうに二人の議論を聞いていた南海先生が、両極端な二人をたしなめ、何ともバランスのとれた見解を披歴して、この談義は幕引きとなる。この本はそういう話。 何事もバランスが大事だ、南海先生の様に中庸を見失わないことが。そんなことを誰かに教わり、特に疑問も抱かずにこの本を初めて読んだのがもう何年も前。改めて読み返してみるとどうだろうか? 南海先生の最後の意見を聞いた両客人は、そんなことは子供でも知っているとあざ笑う。今回私が一番気になったのはここである。南海先生は尤もらしいことをおっしゃるが、それでは何も言っていないに等しい。そんな客人の気持ちがよく分かる。しかし、洋学紳士や豪傑君になりたいとは思わない。南海先生が言うように、まずは物事の道理をわきまえねばと思う。しかし、自分が南海先生の様な存在でありたいかといえば素直に肯定できない。いやはや、どうしたものか。私も酒をあおって議論に参加し、四酔人経綸問答でも演じねばならぬのか…。 私はどんな役者としてこの酔人問答に参加すべきなのか。これはまた数年後に考えるとしよう。その時の私の答えは? 我が事ながら興味がある。この評は、今現在経綸問答に参加できない自分の姿を記録するものとして大切にとっておこうと思う。 (歳) (268頁 税込630円)
上田秋成著 高田衛・稲田篤信校注 ちくま学芸文庫 短編小説集の名作 「青頭巾」という小説には深い謎があると聞き、本書を手にとったのはいつのことだったか。愛欲のあまりに稚児の死体を喰らい、食人鬼と成り果てた僧は、行脚の僧・快庵禅師に出会う。僧が救いを求めると、禅師は禅の教えを説いた詩を与え、その意を悟ることを命じる。翌冬、禅師が訪れると、蚊の鳴くような声で詩を唱えるのが聞こえる。「何と悟ったか」と「一喝し他が頭を撃ち給へば、忽氷の朝日にあふがごとくきえうせて、かの青頭巾と骨のみぞ草葉にとどまりける」。謎とは、僧が悟って救われたのか、救われないままに消えたのかということだったが、むしろ、その文章力に怖気をふるった。僧の消える場面は、氷の儚いきらめきとひんやりとしたイメージ、そして草の上の青頭巾と白い骨の鮮やかなイメージを畳みかけ、生に迷った人間の最期を永遠に怪異なるものに仕立てている。この手際の鮮やかさ! 作者の上田秋成は、江戸時代、18世紀の人である。大阪の商家に生まれ、家業を継ぎつつ文芸活動を行った。ここに紹介するちくま学芸文庫版は、各篇、【本文】【語釈】【現代語訳】【評】から成るが、とにかく【本文】と【評】を読まれたし。怪異的な側面が強調されがちな本作品の知的な方法意識を【評】は読み解き、校注者言うところの秋成の「言葉の森」へ読者を誘う。先に見た筆力は、王朝文学から中国小説をもカバーする秋成の博覧強記に支えられていることが分かってくる。古典に親しみたい人にはもちろん、現代の小説好きにとっても刺激的な一冊である。 (羊) (508頁 税込1470円)
デカルト著 谷川多佳子訳 岩波文庫 哲学入門の古典的名作 高校時代、大学で哲学を専攻しようと思ってはいたものの、いわゆる哲学書は殆ど読んでおらず、その数少ない一つが本書『方法序説』であった。あの有名な「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する(je pense,donc je suis/cogito,ergo sum)」(第4部)という或る種の独我論的表現も、初めて読んだ時(自意識過剰なあの頃!)は腑に落ちたのだが、その文章が持つ思想史的意味をあの時十分理解できていたかどうかは心許ない。今では図らずもデカルトの思想を(批判的に)研究することが仕事の一つになり、本書の印象もだいぶ変化したようだ(つまり、あのフレーズがそうスンナリとは腑に落ちなくなった)。 本書で述べられている話題は数多く、それらはデカルト以降の思想・諸科学において中心的な話題となっていく。特に周知の通り、あのフレーズを起点として展開される心身二元論(「心(精神)」と「身体(物体)」とは全く異なる別個の実体である)は、一方では意識中心主義の哲学・思想を発展させ、他方では近現代自然科学を推進させる理論的枠組みを与えることになった。それ故、彼の思想が後世に残したもの(それは現代社会に根強く食い込んでいる)を巡っては、今でも賛否両論、議論は喧しい。それだからこそ、自分の足元をしっかり見つめ直すためにも、この古典をじっくり読むことには意義がある。何よりも、一人の稀有な思想家のその思索の道行きを辿り、そして更には読者自らの思索を始める端緒として、本書ほど格好の書物はない。 (茶金) (137頁 税込483円)
モーリス・ルブラン著 堀口大學訳 新潮文庫 堀口大學の訳が冴え渡る短編連作の名作 数年前より、新潮文庫の『ルパン傑作集』が、より読みやすい活字になって再版されている。映画公開の影響もあり、今年はルパンを見かけることが多くなった。昔からお世話になってきた本が今でも書店に並んでいるのを見るのは、やはり嬉しい。 数々のルパンものの中で一冊を、と言われたならば、レニーヌ公爵ことルパンとオルタンスの冒険譚が綴られる本書を挙げたい。タイトルが示しているように「塔のてっぺんで」「水瓶」「テレーズとジェルメーヌ」「映画の告示」「ジャン=ルイの場合」「斧を持つ貴婦人」「雪の上の足跡」「マーキュリー骨董店」の全八話で構成される短編連作集である。喜劇性と悲劇性の絶妙なバランスと、人物の心理描写の細やかさが本書の醍醐味。悲劇の中にも喜劇が潜みうる(その逆もまた然り)ことを、わたしはルパンから学んだように思う。また、彼がはったりやいかさまを駆使する心理戦によって謎を解明していくさまは、何度読み返しても手に汗握ってしまう。心理的駆け引きといえば、ルパンとオルタンスの恋の行方も見所の一つ。このあたりは、さすがは堀口大學、友情と恋の間で揺れるオルタンスの感情を、見事に日本語で表現している。『ルパン』は単なる子供向け冒険小説と侮れないことを、改めて思い知った。 なお、『ルパン』の翻訳は、新潮社だけでなくポプラ社や偕成社、東京創元社などによっても出版されている。出版社によっては翻訳されていない話もあるので、版元による違いを読み比べてみるのもおススメだ。 (ぺえ) (394頁 税込580円)
遠藤周作著 新潮文庫 人間の罪の意識を問う名作 戦争末期の九州の大学病院。「病院で息を引き取らぬものは、夜ごとの空襲で死んでいく」時代にあっても、医師たちは激しい権力闘争を繰り広げている。しかし、野心的思惑から早められた重要な手術が失敗に終わってしまう。真白な手術衣に身を包んだ医師たちが、肋骨をボキンボキンともぎ取っていく手術風景は、少なくとも一昔前までの病院に対する根源的恐怖の内実を暴いているようでもある。しかして手術の失敗に焦った医師たちは、次に米軍捕虜たちの生体解剖に手を染めることになる。この事件は実際に起こったことである。 小説の中では、勝呂という若い医局の研究生の内面に焦点が当てられ、それに対比するように、同じく解剖に参加したもう1人の研究生戸田と、看護婦上田の回想が加えられる。しかし、戸田や上田に比べ、解剖への協力を承諾するまでの勝呂の心の動きは、どこか判然としない。彼は暗い運命の海に呑まれていくかのように事件に加担していく。立ち去ることもできず、手術室の壁際で「俺あ、あんたに何もせん」と呟く勝呂。抗うこともせず流されていくその心性は、解剖後、病院の屋上から見える海に何かを探そうとするが、結局見つけられなかったというくだりに象徴的に表わされている。この小説を通して、遠藤は「神なき日本人の“罪の意識”の不在の不気味さ」を描いた。しかし、やはり考えずにはいられないのである。勝呂はなぜ解剖への協力を断れなかったのかと、そして私たちは運命の川に棹差すようにしか生きられないのかと。 (柊) (164頁 税込380円)
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| 京都大学生協書評誌/綴葉 2005年12月・2006年1月号 |