| 2005年5月号 |
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新田次郎著 新潮文庫 記録文学の名作 時は明治35年1月、来るべきロシアとの戦争に備え、風雪吹き荒ぶ八甲田山へ足を踏み入れた、神田大尉率いる雪中行軍隊。零下20度にも及ぶ寒さと吹雪の中で、隊員210名のうち、199名もが命を落とした悲劇。極限状況下で、一人の発狂者が次の発狂者を呼ぶ死の彷徨を、新田次郎が迫真の筆で綴った記録文学の名作である。 何がこの悲劇をもたらしたのか。小説の中で繰り返し描かれるのは、編成外として雪中行軍隊に随行していた山田少佐による、神田大尉の指揮権の侵犯である。隊の指揮官である神田大尉の計画に事あるごとに反対し、隊員を死地に追いやった山田少佐。なぜ神田大尉は正当な指揮権を要求しなかったのか? 神田大尉は平民出であり、士族の士官学校出身者が士官の殆どを占めるなかで、その能力を認められ大尉に上りつめた優秀な人物だった。しかし、平民出の将校は、士官学校出の者に対して自らを卑下する嫌いがあり、神田大尉が山田少佐に不必要なまでに従順であった背景には、階級の差とともに、当時厳然と存在した身分格差があるのだという。 しかしながら、199名の犠牲者が、もし雪中行軍で生き残っていたとしても、彼らに幸が訪れたとは限らない。なぜなら、生き残りの兵の多くは、日露戦争で戦死・負傷する運命にあったのだから。 明治維新以来、近代化の道を歩んできた日本が、大国ロシアに勝利する3年前の話。近代日本のハイライトの裏に存在した暗部を強烈に描き出した1冊である。それから1世紀。振り返る好機である。 (歳) (331頁 税込540円)
寺田寅彦著 小宮豊隆編 岩波文庫 科学エッセーの名作 科学エッセーと聞いて、誰の文章を思い浮かべるだろうか? 日本人に限っても、ノーベル賞受賞者の湯川秀樹や朝永振一郎といった人々を始め、枚挙に暇がない。ただやはり、日常の一見何でもない出来事(後の「複雑系の科学」で扱われるようになる自然現象)に目を向け、それを科学的・物理学的に観察・分析し(「電車の混雑について」「自然界の縞模様」など)、<自然>の奥深さ、<科学的なものの見方>の面白さを伝えてくれる優れた随筆家は、寺田寅彦であろう。 寺田寅彦(1878−1935)。東京帝大の物理学教授にして、夏目漱石とも親交の深かった俳人。本書はそんな彼の残した数々のエッセーの中から、約百編を選りすぐって収録したものである。その全てが科学エッセーというわけではない。彼の人間としての豊かさを示すように、専門の物理学について(「相対性原理側面観」「ルクレチウスと科学」など)、科学と芸術について(「科学者と芸術家」「科学と文学」など)、自然災害について(「断水の日」「天災と国防」など)、映画や俳諧について(「映画芸術」「俳諧の本質的概論」など)等々、非常に幅広い。但し自然科学以外のものについてのエッセーにも、所々<科学的なものの見方>が見え隠れしており、一風変わった味のある随筆となっている。 寅彦曰く、「科学が文学と握手すべき領域は随筆文学、エッセー文学のそれであるかと思われる」(「科学と文学」より)。興味のあるタイトルのものから読んでみて下さい(タイトルに良い意味で裏切られることもしばしば)。彼の珠玉の科学エッセーをご堪能あれ。 (茶金) (各約300頁 各税込693円)
チャールズ・ディケンズ著 石塚裕子訳 岩波文庫 元祖「《デイヴィッド・コパフィールド》式のくだんないこと」の名作 デイヴィッド・コパフィールド君は小説家である。彼は書斎でまさにこの(『デイヴィッド・コパフィールド』になるはずの)小説を書いている。若き幼き日に思いを馳せ…。 ところでそれに遅れること150年、こんな書き出しの本が出る。 「もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。…」(『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳 白水Uブックス)。 実際「僕」=ホールデン君が苛立つのも無理からぬことではある。コパフィールド氏は物語のツボを心得ていらっしゃって、なかなかに思わせ振りである。継父によるいじめ、堕天使スティアフォースの魅力、偽善者ユーライア・ヒープの魔の手、と息もつかせずはらはらドキドキさせて下さる。成熟した、世慣れた、いくらか世間ずれした「大人」の目線。ホールデン君にしてみればそんな「インチキ」は断じて受け入れられまい。 けれども何ほどか大人になってしまったものはどうすればいいのだろう。ホールデン君のようにはなれなかった者は。やはり僕らは思い出すのではないか。甘く、せつなく、優しく。嘘だと知りつつも、まるでそのように生きてきたかのように、「くだんないこと」をつらつらと。 (韓図) (各約450頁 各税込735円)
宮本 輝著 新潮文庫 ダービーの前に読みたい競馬小説の名作 本書との出会いは中学生の時。今改めて読み返してみて、やはり面白い、と思った。 なぜだろうか。それは、私が京都に住むようになったことと無縁ではないように思える。作中に出てくる大阪のキタ新地や京都の河原町、淀の競馬場といった場所、あるいは登場人物たちの使う関西弁は十年前よりも身近に感じられ、情景を思い描く助けとなっている。 また、物語の構成にも面白さの秘密がある。競馬は多様な職業の人々によって成り立っており、職業が違えば競馬に対する見方も当然異なってくる。本書では、牧場の跡取りの渡海博正、馬主の和具平八郎とその娘久美子、平八郎の秘書の多田時夫、騎手の奈良五郎という五人の視点から物語が語られる。このことによって、生死を賭けた勝負の非情さと、それでも夢やロマンを感じずにはいられない不思議さを併せ持った競馬の世界を、本書は見事に描ききっている。なお、久美子や多田の視点は一人のファンのそれに近く、競馬を知らない読者のガイド役を担ってもいる。読者は、本書を読み進めていくうちにいつの間にか競馬通になっている自分に気付くだろう。 さらに、馬と人間とが共に「血」の業から逃れられない存在として描かれている点にも注目したい。本書の特徴は、「馬の生を通じて人の生を見る」点にあるからだ。物語は競走馬オラシオンの誕生に始まり、ダービーで終わる。だが、オラシオンの誕生によって、登場人物それぞれの中の、「それまで止まって動かなかった何物か」が動き出す。本書は馬の物語である以上に、馬に様々な思いを託し、時には翻弄される人々の物語である。 (ぺえ) (上巻334頁 税込540円)
(下巻394頁 税込580円)
フランソワーズ・サガン著 朝吹登水子訳 新潮文庫 青春小説の異彩の名作 若々しく魅力的な父親と、亡き母の古い友人アンヌの再婚を、父の(元)愛人と自分の恋人を使って妨害し、この聡明で美しい女性を死へ追いやるセシル。南仏の海辺のきらめく波と、熟れた太陽のもとで。優秀な大人の女性に対する憧れと反発、父親の愛情を独占したいという思い、好奇心と一種の残酷さ――こんな言葉をいくつ重ねても空虚に感じられるほど、セシルの心理はとても微妙で捉えがたい。 けれども、結局、どんな記憶であっても風化を免れることはないのだ。事件後、彼女らは少しだけ悲しんだ後、またもとの陽気で騒がしい生活に戻っていく。もちろん、それは、アンヌの自殺が、事故だったかもしれないという一縷の慰めを残していたからであるけれども。しかし、同時に、彼女の中には、ある感情が棲むようになる。暁方のしじまにだけ訪れる、この物憂く甘やかで利己主義的な感情―悲しみというもの−を知ったとき、彼女は、青春時代の一部に別れを告げたと言えよう。そして、本編の最後でセシルが「悲しみよ こんにちは」と唱えるとき、私たちもまた、常にドラマの底を流れていたあるリズムに気付くのである。それは、儚さ、とでも呼べようか。かつてそれを知ったときの切ない胸の疼きとともに、その名を何度も噛み締めていただきたい。 サガンが、この異彩の青春小説によって、文壇にデヴューを飾ったのは、わずか18歳のときのことだった。その華々しい才能には驚嘆を禁じえない。そして、去年9月、彼女の訃報が届いた。かつて、インタヴューの中で、「私がいつか死ななくちゃならないなんて、言語道断だと思うわ」と答えた少女も、ついに天に召された。 (柊) (164頁 税込460円)
須賀敦子著 文春文庫 人生の魅力を描くエッセーの名作 何年もたってから、記憶にある過去の風景や出来事が明確に理解されるということがある。著者は13年間イタリアで暮らし、帰国後30年を経て本書を著した。コルシア書店は正しくはコルシア・デイ・セルヴィ書店といい、詩人で司祭のトゥロルド氏を中心に始められたミラノの小さな書店である。1950年代・60年代、つまり戦後10年かつ学生運動が暴走する前夜の時期にあるイタリアで、新しい共同体の創造を夢見て、あらゆる背景を持つ仲間たちが書店に集った。著者もその1人だった。 20代の終わりから40代のはじめまでをともに過ごした仲間たちの姿が、生き生きと描き起こされる。その文体は決して、回想につきものの感傷に溺れない。むしろ、透明感を感じるほどに明晰かつ中立的であり、かつての仲間たちをあたたかく包む。当時の著者の像として、元気な仲間たちをやや離れたところから、微笑んで静かに見つめる若い女性の姿を思い浮かべるのだが、文体から察するにそれはあながち間違いではないだろう。ただし、彼女は場を引いて眺めていたのではない。 皆が同じ理想を思い描いているわけではないことにそれぞれが気がつき始めるとき、コルシア書店という場はその活気と魅力を失い、仲間たちはそれぞれの方法で老い始める。そういうかなしい過程を、30年後の彼女はどのように理解したのか。それを書く過程で、彼女はイタリアの人々の心性や、彼らの歴史が抱える問題にも深く関わっていくことになる。 人は人生の過程でそれぞれのコルシア書店に出会うだろう。評者は、評者にとって何番目かのコルシア書店が失われて後、本書に出会った。 (羊) (237頁 税込459円)
栗本 薫著 ハヤカワ文庫 世界最長の小説、100巻を越えて続く名作 1970年代末、まだ20代半ばの栗本薫は、物語なるものへの批評的検討に基づき、周到壮大な物語を構想・発表した。それは、25年かけ、全100巻で終わるはずだったが――先日遂に出た第100巻は、確かに、1981年2月の外伝第1巻の謎(進行中の正伝より後の未来が舞台だったため、読者に多くの「予言」が示される結果となった)の一面を解き明かすものだったものの、物語自体は、結局、新しい冒険の途上で次巻へ続くことになった。 中には、今から読み始めようかと思い立ちながら、「現在100巻」の分量の前に、新刊発売を楽しみに待つところまでは到底追いつけぬと、諦めてしまう人もあるかも知れない。だが、心配する必要はない。この物語は、おそらくまだまだ続くはずだから。本巻のあとがきで著者は、「私だって最後まで読みたいし、読まないわけにはゆかない以上、書かないわけにはゆかない」と断わりつつ、これまでの感慨を、物語るように記している。 《それが私の望んだことだったから――ネバー・エンディング・ストーリイ、終わらない物語を書きたいと願った一人の若い娘がいました。そしてその娘はいつまでもいつまでもその物語を書いていたそうです。この世の果てるときまで、その娘がおばさんになり、やがておばあさんになり、その娘の生んだ子どもがひとの子の親になってもなお。》 一大巨編である。グイン・サーガ自体は、当初の予定を過ぎたとはいえ、いつかは終わるだろう。しかし、栗本薫は、彼女の人生が終わるその日まで、外伝や後伝そのほかを書き続けようとするに違いない。そして、彼女が世を去った後にも物語は残り、誰かがその続きを書こうとするだろう。 (森田) (312頁 税込567円)
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| 京都大学生協書評誌/綴葉 2005年5月号 |